カンボジア経済を読み解こう!歴史から見るカンボジアのこれから

執筆者:荒木 杏奈

アンナアドバイザーズ株式会社

2021/10/01

「カンボジアは労働世代が多いから、経済の成長が期待できる」
「外資優遇政策をとっているから、カンボジア投資がおすすめ」

カンボジア投資を考えている人の中には、このような話を耳にしたことがある人も多いのではないでしょうか。

なぜカンボジアは他の東南アジアの中でも異色の政策をとっているのでしょう?
それは、これまで歩んできたカンボジアの歴史が他の国と大きく異なるためです。

今回は、そんなカンボジアの歴史とそこから見えてくる今後のカンボジアの経済について説明していきます。

 1. カンボジア経済を知るために 

カンボジアと聞いてどんな国を想像しますか?

「観光名所のアンコールワットが有名」
「独裁政治が過去にあって治安がよくないイメージ」
「経済成長が期待されている国」

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このように多種多様なイメージがあるのが、カンボジアだと思います。
1950年以降大きく変わってきた国なので、年代によってカンボジアに関するイメージが違っています。東南アジアの観光名所トップに度々あがるアンコールワットも、実は有名になったのは近年のことです。

急激な変化を遂げているカンボジアは、東南アジアの国々の中でも一番経済成長が期待されている国と言われています。東南アジアといえば他にも大きな発展を遂げている国がある中で、なぜカンボジアは今後の成長が期待されているのでしょうか。

 2. カンボジアの歴史 

カンボジアのこれからを予測する上で知っておかなければならないのが、フランスからの独立後(1953年以降)のカンボジアです。この頃に起こったさまざまな出来事によって、カンボジアの発展は大きく遅れてしまったと言われています。
また、現在続いているカンボジア特有の取り組みもきっかけは歴史のなかにあるのです。さっそく見ていきましょう。

 2-1. ロン・ノル首相によるクーデター 
他国の支配が終わり、カンボジアが完全に独立したのは1953年になります。この頃のカンボジアは隣国ベトナムやラオスが戦火に巻き込まれる中、シハヌークをトップに平和を維持していきます。
そんな束の間の平和は、ベトナム統一をめぐって起こったベトナム民主共和国(北ベトナム)とベトナム共和国(南ベトナム)の戦争によって破られます。

シハヌークは、ベトナム戦争にカンボジアが巻き込まれることを恐れ、北ベトナム・南ベトナムどちら側にもつかない中立政策をとっていました。北ベトナムが南ベトナムにある反政府ゲリラを支援するためにカンボジア国内を使っていたことも黙認していたのです。
これをよく思わなかったのが、南ベトナムを支援していたアメリカ。補給路がなくなると圧倒的に有利になるアメリカからすると、カンボジアの黙認は許せない行為だったのです。

そこで、アメリカは親米派だったロン・ノル政権を支援します。シハヌークが海外へいっている間にロン・ノル政権がクーデターを起こし政権を握ってしまったのです。
ロン・ノル政権は親米派のため、アメリカにとって都合のいい戦争方針を打ち出しました。そして、カンボジア国内のベトナム軍や解放戦線に対して攻撃を仕掛け、ついに内戦が始まります。この内戦により、約50万人の方が亡くなったと言われています。
1975年にアメリカが撤退すると、後ろ盾のなくなったロン・ノル政権は徐々に崩壊し、カンボジア内戦は終わりをつげました。そして次に政権を握ったのが、ポル・ポトです。ロン・ノル政権崩壊により、やっと平和が訪れるかと思われたカンボジアをさらなる悲劇が襲います。

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 2-2. ポル・ポト政権のはじまり 
ポル・ポトは自分の政権を盤石なものにするために、さまざまな不安分子を取り除きはじめます。
ロン・ノル政権につながる人物を全員処刑し、プノンペン市民を全員都市部から追い出して、地方の農村へと追いやったのです。もちろん、すぐには移動できない人や反対する人たちもいたのですが、そういった人たちは容赦なく命を奪われていきました。強制的に移住させられた人は家を失い、家族とも引き離されたのです。

ポル・ポトの非道はこれだけではおさまりません。知識のある人がいると、政権をおびやかされる恐れがあると考え、知識人をも殺害し始めるのです。
学校の先生はもちろん、海外留学中の人なども呼び戻されてどんどん犠牲になっていきました。新聞を読んでいると、字が読めると思われ殺されてしまうため、当時の人は新聞を逆さに持ち、読めないことを装うようにしていたという話が今でもカンボジアには残っています。

こうして当時の労働世代のほとんどがいなくなってしまいました。詳しい人数は分かっていませんが、当時のカンボジア全人口の3分の1以上の方が殺されたと言われています。

ポル・ポト政権はさらに貨幣の廃止、学校や病院、宗教を禁止し、カンボジアの歴史の多くが失われてしまったのです。

1977年に入ると、ポル・ポト政権は国内だけではなく、ついに国外にも攻撃を行うようになります。軍事攻撃を受けた、ベトナムはカンボジアへの侵攻を始めます。そのとき初めて、カンボジアの悲惨な状況が世界に知れ渡ったのです。
1979年にベトナム軍がプノンペンを制圧すると、ヘン・サムリン政権がカンボジアを治めます。1991年ついに和平が結ばれ、20年に渡った内戦状態が終わりを迎えます。カンボジアにやっと平和が訪れたのです。

 2-3. カンボジア王国復活と経済発展 
1993年、シハヌークが再即位して立憲君主制へと復帰し、23年ぶりにカンボジアに統一政権が誕生します。1997年からはフン・セン首相が政権を握り、1999年にはASEANに10番目の国として加入します。その後、2004年にWTO(世界貿易機関)へ加盟し、貿易・投資関連の法律などの整備を着実に進めるに至ったのです。

国内政治においてもフン・セン首相が率いる人民党が、カンボジアの政治を主導する体制をゆるぎないものとしています。カンボジアが経済成長するための基盤が整ったのです。

 3. カンボジアの人口・金融 

2019年のカンボジアの国勢調査の結果によると、カンボジアの現在の人口は1530万人となっています。平均年齢は25.6歳で人口分布は年少人口31.6%、生産年齢人口が64.5%、高齢者人口が4.0%。高齢者の人口が極端に少なく、生産年齢の人口が多いという特殊な人口構造になっています。
 

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これはポル・ポト政権の大量虐殺による影響です。ポル・ポト政権が終わった直後、国民の85%が14歳以下だったと言われており、労働生産人口が極端に少なくなった状況で自国の経済活動を回していくためには、外資企業に依存せざるを得なかったのです。また、先ほど述べたように知識人がほとんど殺されてしまったため、自国に教育を行えるものや、経営をできるものがおらず、国外にそれらの力を求める他なかったのです。

このような背景があり、カンボジアの経済市場では外資企業の投資への規制がほとんど存在しません。外資企業がカンボジアに進出しやすい理由もこういったところにあるのです。自国の通貨である「リエル」も、過去の政策影響を受けて、米ドルへの信頼が優先される傾向が続いています。出回っている現金の80%以上が米ドルという状態なのです。

現在のカンボジアの特徴である、生産人口が多く、外資優遇政策をとっているため経済成長が期待されるという裏には、カンボジアの凄惨な歴史の傷跡があるのです。

 4. カンボジアのこれから 

近年のカンボジアは、縫製品・製靴品の輸出、観光、建設・不動産、農業の4つのエンジンで経済成長を続けています。
この中でも成長の核となっているのが、縫製業や製靴業で、カンボジアの輸出のけん引役となっています。これは、アメリカやヨーロッパ諸国のアパレルが人件費の安いカンボジアに対して、低価格製品の生産委託を増加させたことが大きな要因と考えられます。
 

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2019年まではずっとプラスの経済成長率だったのですが、2020年に新型コロナウイルスの影響もあり、初めてマイナスの経済成長を記録しました。

しかし、IMFはカンボジアには労働人材となる若年層が多いことや、外資企業が活動しやすいことなどからコロナ収束後にはまた経済成長率がプラスに転じると予測を立てています。
現在も新型コロナウイルスの影響で、東南アジアの経済成長率がマイナスを推移する中、8月にカンボジアのオウン・ポンモニラット財務経済相は2022年のカンボジア経済成長率は4.8%まで回復すると予測しました。

カンボジアは内戦やポル・ポト政権という厳しい時代を乗り越えて、今やっと成長の果実を手に入れようとしているのです。

執筆者:荒木 杏奈

アンナアドバイザーズ株式会社

日本とカンボジアを拠点に、国内・海外不動産業を展開。

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荒木杏奈 / アンナアドバイザーズ株式会社

宅地建物取引士 / 1984年生まれ、東京都出身。
大手広告代理店セプテーニ(株)入社、その後SBIグループを経て2012年よりカンボジアの首都プノンペンの金融機関に勤務。
2013年に独立し日本とカンボジアに拠点を持ち、国内・海外の国際不動産サービスを展開。

著書:東南アジア投資のラストリゾート カンボジア (黄金律新書) 新書 幻冬舎
   はじめての海外不動産投資